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MOUNTAIN MOCHA KILIMAMJARO非公開バイオグラフィ ~成り上がり~

2006年09月14日 更新

無題ドキュメント

MOUNTAIN MOCHA KILIMANJARO
~成り上がり~

・四方田 "テムジン" 直人 (Tp) ・大橋 "カルロス" 邦充 (Ts)
・小林 "ボブサン" 直一 (Gu) ・近藤 "ニトベ" 祐介 (Ba)
・岡野 "タイガー" 諭 (Dr)  
2003年
1月

・キリマンジャロの前身バンドである、若気のいたりハードロックバンド、『BACK FIRE』を方向転換のため解体。
・なんとなく『MOUNTAIN MOCHA KILIMANJARO』と命名。意気揚々と活動をスタートさせる。

3月

・RED HOT CHILLI PEPPERSのコピーで初ライブを行う(このときのバンド名はチリ紙ズ)も、「こんなのレッチリじゃない」と強烈な 一言を頂戴してしまい、開き直ってオリジナル制作に入る。

4月

・あまりにも急なベーシストの脱退。テムジンに無理矢理ベースを持たすなどの悪あがきをするも上手くいかず、しばらく途方に暮れる

8月

・待望のベーシスト、ハチミツ君の加入。本腰入れて再スタート。右も左も分からないままFUNKという名の黒い海に溺れ始める。
・テムジンにギャグでトランペットを勧め、まんまとハマりだす。
☆タイガー、テムジン、義兄弟の契りを交わす。
☆ボブサン、タイガー、ガンダムにハマり始める。

10月

・MOUNTAIN MOCHA KILIMANJAROとしての初ライブを埼玉春日部で行う。FUNKに成りきれてない奇妙なスタイルで、退屈な日本の音楽シーンに喝を入れる。
・しばらくは埼玉、東京のライブハウスで着々と動員を伸ばしたり、伸ばさなかったり。

2004年 
1月

・ボブサン、燃える眠らない東京は渋谷で、現在は、StormerでレギュラーDJを努めるMSQ a.k.a. 無策氏プレゼンツにより行われたイベント「Funky Stroll」にて「相模原が生んだウェービーヘアー」こと四丁目氏と運命の出会いを果たす。お互い、あっ、という間にフォーリンラブ。この出会いが後のキリマンジャロに多大な影響を与える。
☆タイガー、ガンプラを組み立てられずガンダムブーム去る。

5月

・SKA界のプリンス、カルロス加入。
・幻の1stシングル「open the zipper」発売(ジャケットデザインは大槻氏) 2週間で30000枚のセールスを記録(ウソ)。
☆下北沢屋根裏のライブ後、ヒゲ面のブッキングマネージャーに「氣志團みたいになれ!」と言われ、メンバー激怒。部屋をメチャクチャにして帰る。

7月
・またしてもベーシストの脱退。完全公務員宣言をし、バンドを去る。懲りずにテムジンに無理矢理ベースを持たすなどの悪あがきをするも上手くいかず、しばらく途方に暮れる。
・タイガーの中学時代の塾友達のアライちゃん(ギタリスト)に強引にベースをやってもらい危機脱出。
10月

・カルロス、テムジン、四丁目率いる4st. Soulのレコーディングに参加。他のメンバーも、なぜか素っ裸でコーラスに参加する。
☆アライちゃん、ベースに飽きてくる。
☆カルロス黄金期。なにをやってもオモシロい。しばらくチョーシに乗る。

12月
・渋谷PLUGにて、4st. Soulとの共同企画、「CHIKEN」開催。
・このころから、カヴァーを盛り込んだ曲間の無い現在のライブスタイルが定着し始める。
2005年 
2月
・新ベーシストに高橋さん加入。あれよあれよと高橋さん脱キリマンジャロ。再びアライちゃんに頭を下げる。
3月
・埼玉の大宮ハーツで、現在のベーシスト、近藤ニトベに出会う。意気投合し何度かセッションするも、突如音信不通になる。
4月

・渋谷PLUGにて第2回「CHIKEN」開催。
☆ボブサン事故る。お気に入りの車が大破してしまうも無傷で生還。

6月

・黒船音頭スタート。クラブイベントの難しさに頭を抱える日々。
・テムジン、ONOIN一派の怪獣公園に参加するようになる。
☆カルロス衰退期。チョーシに乗りすぎた結果、笑わそうとしすぎて笑えない男になってしまう。

8月

・ボブさん、タイガーの地元、埼玉県加須市のお祭りにライブで参加。おじちゃん、おばちゃんにエラく気に入られる。
・音信不通になっていた近藤さんが、ひょっこり黒船に現れる。どーやら過去の痛みを乗り越える旅に出ていたようだ。
☆テムジン、誕生日に水泳帽、ゴーグルをもらい思いのほかハシャぐ。

11月
・渋谷NO styleにて行われている、MASTER DONUTに参加。以後レギュラーで参加中。
12月

・近藤ニトベ正式加入
☆テムジン、カルロス禁煙宣言

2006年 
1月

・MASTER DONUTにて近藤さんデビュー戦
☆カルロス禁煙失敗。お菓子を食べる習慣だけが残ってしまい着々とデブりはじめる。

3月

・STORMER@渋谷LUSHにゲスト出演。
・AFTER THIS@池袋bedにゲスト出演。
☆ボブ、タイガー、ニトベ、カルロス、STORMERのDJ,プライベートでもお世話になりまくりなMSQさんと共に大阪旅行。道頓堀で、カルロス、ニトベ、妖怪に遭遇。体力を奪われる。

5月

・タイガー、カルロス、MSQ氏主催の変態バンド、Far East Sweaty Bandに参加
☆近藤ニトベ、恋の季節突入。萌え萌えモードにスイッチが入ってしまい手が付けられなくなる

7月

・The Soul Fortune Society、MSQ氏と共に、長野のブラックパーティ、MOVEに黒船から、四丁目氏とキリマンジャロ参戦
☆ボブサン、タイガー、長野出発直前までお神輿を担いでいたためボディが悲鳴を上げてのライブ。
☆近藤ニトベ、自称モテ期到来。あくまで自称。

8月

・再び埼玉加須市でのライブ。修二と彰並に、地元じゃ負け知らず
☆黒船DJの土屋さんの実家、伊豆にメンバー全員で遊びに行く
☆ボブサン、伊豆で財布を盗まれる。本人は、「海賊の仕業や!!」と豪語

9月
・怒涛のライブ月間。大阪NO.1FUNKパーティ、HEAVY FUNK SYSTEMの参戦も決定し、闘志がほとばしっている
text by 岡野 "タイガー" 諭

自由の象徴“ベルボトム”

2006年09月03日 更新

<マウンテンモカキリマンジャロのサックスの大橋"カルロス"邦充によるコラムです。>

今月、9月9日からニューヨーク市立博物館で『黒人ファッション』をテーマにした"Black Style Now"の新設展示が開始される。
"Black Style Now"は、アフリカンアメリカンのファッションの移り変わり、およびヒップホップがファッション業界に与えた影響を、アーティストが実際に着用した衣装、アクセサリーや映像、写真などを通じて展示紹介する展覧会である。
日本でもヒップホップがファッション界に与えた影響はかなり大きい。
ちなみにヒップホップのスタイルで定番の大きめサイズ。これは当時の家庭は兄弟が多く、お金もなく服が買えなかったため、おさがりを着ていたという。また金のアクセサリーは、「俺はこれだけ働いて、これだけ稼いだんだぜー!」という主張の表れ。
ダボダボのパンツに大きめのTシャツ。金のアクセサリーをジャラジャラと身につけ、街を歩く。こんなシーンは映画のスクリーン、ニューヨークの街中だけでなく、今や埼玉のド田舎でさえ見かけることができる。
黒人への憧れ...黒人音楽への憧れ...黒人ファッションへの憧れ...
皆さんも一度はないだろうか、こんなこと・・・
映画の中のファンキーな格好をした主人公、憎らしいけれどハンパなくかっこいいマフィアのボス、そしてCDやレコードのジャケット、そしてそして街中の黒人を見て「かっこいい~」って思ったこと・・・。
そこで写真を3枚。

sly.JPGblack_culture.jpgpants.jpg

一番上の左の写真は、黒人白人、男女混成バンド、そしてファンクの伝道師スライ&ザ・ファミリーストーン。ファンキーな衣装、そして音楽共に60年代末のフラワームーヴメントを象徴している。
一番上の右の写真は、70年代の学生達の写真。この集合写真はかっこいい。白黒なのがとても残念だが、とにかくかっこいい、個人的に見てて飽きない。
そして一番下の左側の写真は、何かのカタログだろうか。ベルボトムを穿いた黒人。足が長すぎる。羨ましすぎる。
黒人のファッションにはパワーを感じる。決して綺麗だとかお洒落だとかそういう言葉では表現できない力強さがある。特に色。ビビットとはいわずともアクの強い色。何でこんな色を着れるんだろう?何故だろう?考えた末に出た答えが・・・考えてない!
そう、考えてないんです。自分が「かっこいい!」って思った服を着てるだけ。
黒人達のパワーが炸裂する70年代、それまでのファッションというのは、民族、宗教,戦争、スポーツ。それら単体での制服という感覚ではファッションが根付いていたものの貧富の差が激しい上にファッションの自由というのがあまりなかった。
これではいかん!60年代末からの若者達による学生運動が活発化し、自由の主張、反抗が激化。
自由や反体制の象徴であるジーンズはこの時代にヒッピーが広めた。
もともとジーンズとは1850年、かの有名なリーバイ・ストラウスが作業をしているとパンツが破れてしまうため,何かいいものはないかということでテント生地を使い作ったのがはじまり。これまでは作業着として着用されていた。ジーンズはGパンともいうが、これは戦後の日本に駐在していた米兵がはいていたパンツがGIパンツと呼ばれていたということろからきているのが有力説。GI=Government  issue(官給品)。
もとをたどればシャツも下着として着用されていたのだ。今でいうTシャツ代わりだったんですね。これはビックリ。
わかりやすいのが大きな麦畑に麦わら帽子を被ってシャツにオーバーオールを着たおじさん。    
作業着がカジュアル服として広まったんだから若者の力はすごい!

現在、ファッション界は、今年の流行は・・とか、おすすめコーディネートは・・・など、それはすばらしいものであると思うし,色々な方面で音楽とリンクしたファッションも生まれ、僕らの視野も広がりとても楽しいものになっている。ここ最近の裏原系の成功も若いクリエイター達によるものだし。
僕の専門学生時代の恩師である石津謙介さんという方がいる。この人は日本のメンズファッションを作ったというすごい人なんだが、「私は流行は作らない、風俗を作る」といっている。
この言葉,最高です。一時の流行など要らない。ファッションを自己表現ということで考えている僕は、60年代、70年代の若者達が自由を主張し、内なるパワーをファッションでも表現したことに対して、敬意を抱いている。ある意味、自分が選択さえすることができれば、なんでもできてしまう今の時代、自分が何を主張していきたいのか、またそれをどのようにパワーに変えていくのか、流行ではないファッション(自己表現)として見つめなおしてみたい。

Down Under通信 vol.1 The Bamboos編

2006年07月05日 更新

シドニー初日の夜、今回の小旅行のすべての目的といってもいいだろう。オーストラリア発、現在のディープファンクシーンに彗星のように現れた現在進行形ファンクバンド、The Bamboosのライブへ行ってきた。Kay Deeからの7インチは世界中でヒットになり、その後tru-thoughtsと契約しアルバムをリリース、UKツアー前のオーストラリア最後の公演。

今回の会場のthe Basementはシドニーの老舗のジャズやファンク中心のバー。観光ガイドにも載っているくらいの場所。日本で行ったらブルーノートくらいだろうか、まあそんなにきれいではなかった。しかし店内に所狭しと貼られたジャズ、ファンク、ロックの巨人たちのポスターとそれに書かれたサインは見ているだけで壮観であった。

会場に入り一つ驚いたのが女の子の多さ。まあthe Bamboosはそこまで汗がほとばしるという形容があうようなファンクバンドではないが、それにしても男女の率は半々であった。日本で(ディープ)ファンクというと男の世界という形容をされるのが嘘のようである。女の子が太いビートに合わせて腰をくねらせているのを見るのはうきうきする。バンドの演奏に合わせて踊りが加速する客を見ていて、やはりバンドと同様それをサポートする人たちも重要だなと思わされた。明らかなおっさんもいたり、まさに老若男女、さらに肌の色も白から黒、僕みたいなアジア人まで。そして客がみんなおしゃれであった。ファンクというとどうも「土臭い」というようなイメージが着きがちである。しかし明らかに彼らの音楽は都市で生まれる音楽だ。オーストラリア第一の都市のBasement(地下)で、おしゃれを決め込んだ人たちがファンクのビートに腰を揺らす。黒いとか白いとか黄色いとか、男か女か、子供か大人か、そんなものは関係ない。Everything's going to the beat。最高にクールである。僕はここにAcid Jazzとはこういうことだったのかもと思わずにはいられなかった。

9時にオープン、そこから二人のDJ。一人目のDJはジャズファンクから現行のブレイクビーツまで幅広く。僕と趣味が似ていたためにやけてしまう。音楽に国境はないなとこういうときにつくづく思う。さらにそのDJのカートリッジを入れるケースにはJet Set Recordsのステッカーが。終わった後にそのステッカー日本のでしょと話すと「いいレコード屋だよね」と言っていた。しばしそのDJの友人と談笑。その友人もバンドとレーベルをやっているらしく、名刺をもらった。日本でプレイするよと言ったら後で音源を送ってくれるらしい。次のDJは一時間強の完全funk45の世界。最後にかけたBreakestra以外は全部7インチだったと思う。Hip Hop的な感覚でこすったりジャグリングをしながらのfunkの嵐。個人的にテクニックよりもこのDJの組み立て方がすごいよかった。ゆるめのファンクから徐々にBPMもドラムロールも激しくなっていき、それとともにフロアが徐々に埋まってみんな踊りだす。見事な準備運動であった。もちろん僕のビール摂取量も加速。

夜11時頃、フロアが暖まったところでついにThe Bamboosが登場する。ギター、ベース、ドラム、オルガン、トランペットにサックスという編成。簡単な話をしてからすぐに演奏に。その後この演奏が2時間もブッ続くとは思ってもいなかった。そしてそれが2時間も経っていたということを忘れさせてくれるような素晴らしいライブであった。アルバムでは客演でAlice Russellが参加したりもしているが、今回は完全にインストバンドとしてのライブ。余計なMCなども一切はさまず、これでもかと言わんばかりにビートとグルーヴでぐんぐんと客を踊らせる。反復される重くかつ熱い、厚いビートは完全にダンスミュージックとして機能している。そういう意味でやはりこのバンドはHip Hopやダンスミュージックを消化した現在進行形のファンクバンドだ。本当に2時間ノンストップ、曲間もほぼなしで黙々と演奏し続ける姿はクールだ。しかしただクールなだけではない熱さが音の隙間から感じられる。結局2時間こちらもノンストップで踊ってしまった。一緒に行ったバックパッカーで会った友人はバンドも何も知らなかったにもかかわらず、DJの時間から計3時間くらいずっと踊りっぱなしであった。はじめはダウンジャケットを着ていたのが気づけばタンクトップ一枚になっていた。彼のあがり具合はこのライブのよさをよく表しているのではないだろうか。

それだけあついビートの嵐にうたれながら、やはり僕はTighten upはまだかなーと待ち続けたわけです。そんなとき本編最後になってでたのはIt's a Shameのメローなジャズファンクに仕立て上げられた、とろけるようなインストカヴァー。本編終了後もちろんアンコール、そしてまってましたとばかりにTighten Up!!僕はかつてこんなにクールで、かつ熱いTighten upを聞いたことがない。もちろんボーカルもMCもいない、ただのインストなのだが、そこにぐいぐいくるビートとベースが絡まり、ギターのカッティングがのってメローなオルガンがのり、そこにホーンが絡まる。こう書くと味気ないのだが、この6人はこれで魔法をかける。とにかく踊らされた。


ライブ後は客はそうそうと帰って行った。僕はメンバーといろいろ話すことができ、ブリスベンからはるばる見にきたと言ったらすごい喜んでくれました。気づいたら楽屋にいてビールタダでもらったりおいしい感じでいつも通り酔っぱらう。みなさんいい人です。酔った勢いでなんでKay Deeから出さなかったのと聞いたら、Kenny Dopeはクソだとの返事。7インチ以後、Kenny Dopeは連絡してもメールに返事をしなかったそうです。それでtru-thoughtsにいったという裏話も。でもKenny Dopeクラスになると世界中から音源やら何やらのオファーが来たりして大変になるんだろうな。オーストラリアのファンクシーンについても聞いてみたりしたが、明確なシーンがある訳ではないらしい。ここで僕は勘違いに気づいた。どうやら彼らはメルボルンのバンドだったらしい。ずっとシドニーのバンドだと思っていた。その後一緒に飲みに行ったバンドの友達に聞いたら音楽はやっぱメルボルンだよと言ってました。あとで日本に呼ぶと宣言したのでいつか黒船スペシャルで来日なんてこともあるかもしれません。

text by DJ U-Bow(現在、オーストラリア、ブリスベンのクイーンズランド大学に留学中)

The Bamboos

大和ごころ

2006年06月03日 更新

 二杯目と三杯目のコーヒーの合間に「Excuse me. Could you teach me the WabiSabi of Japan?」
侘?寂?何も答えられなかった。だいたいどんな漢字を書くのかすら僕は知らなかった。Japanese-Cultureと言っても様々です。言葉、衣、食、住、芸能、芸術、宗教、習慣、政治、経済、etc...。容易にひとくくりに出来る物ではないし、海外の影響も確実に受けて育ってきた僕らには、容易に理解することも、説明することも困難である。そんな中で古くから「和」というキーワードが根付いているが、近年「和」とは、古い言葉ではなく新しい物として生かされてきている気がする。そこで今回は「侘と寂」「幽玄」「はかないもの」について着目してみました。

「侘」は心を慰める愛情のないことから発し、物質的な貧しさがその意味でしたが、中世の隠者(俗世間との交わりを絶ち、修行あるいは自適の生活を送っている人)の草庵(草葺(ぶ)きの小さな家。草のいおり。)の生活が持つ自然の素朴さに徹する理念として用いられて以来、貧しいという意味合いとは別次元の境地まで至りました。精神的に静かな落ち着いた状態、人生に伴う様々な苦悩を超えた状態とのことです。また「侘」の哲学的美意識は、茶道(茶の湯)の発展とともに確立されていったようです。

 「見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」

『この歌の一般解釈→「漁師小屋のある海岸の景色を眺める と,そこには花も紅葉もないのに秋の夕暮れをしみじみと感じさせてくれる。心打つ景色には花も紅葉もいらないのだ」』(藤原定家)の和歌ですが、この世界こそ、詫茶の精神であるとされています。無一文で、目を見張るような景色もないとすれば、そこにあるのは、静かで穏やかな心のみ、ということのようです。

 一方、「寂」は、閑寂、寂しさを昇華(情念などがより純粋な、より高度な状態に高められること)したうえで見いだされる美だそうです。

 「願わくは 花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」

 23歳で出家し27歳で諸国行脚に出た(西行)の、花と月の両方が読み込まれた最後の和歌です。散る桜、月の満ち欠けなど、現代人には言葉で表しきれな
い美とその心を、整然とした簡潔さで明確に伝えているようです。「幽玄」であり、「風雅」な素朴さといえるもので、のちに西行を慕った松尾芭蕉は、「寂」を閑寂な情緒の洗練として、俳諧の根本理念のひとつとしたとのことです。「侘寂」はともに、「渋み」の精神であり哲学です。

 それでは「幽玄」とはなんでしょうか。「幽玄」という表現は、平安時代から用いいられていました。藤原俊成は同じ平安末期の歌人西行と共に、その時代の苦悩を詠み、そこに「幽玄」という観念をつくりあげました。それは芸術であると同時に思想でもありました。室町時代、観阿弥・世阿弥の親子により、能楽に「幽玄」という芸風が打ち出され、平安の和歌の伝統、仏教の影響を受けつつ「幽玄」を能楽の理想の美しさとしたとのことです。『花伝書』『花鏡』などは、芸術論として幽玄の世界を示すもので、能楽の秘伝奥義でありながら、他の専門分野にも共通する原則論、人生の幸福論ですらあるとのことです。

 「はかないものをいとおしむ」

 移り変わることに敏感な精神は、同時にはかないものに情緒を感じます。満開の桜も美しいものですが、むしろ、次の瞬間にほんの短い時を過ぎて散る桜のはかなさをこそ、いとおしく美しいと思う心です。茜色がすぐに暗くなってしまう夕暮れの空、朝咲いて日暮れにはかれてしまう花……。月もいつも満月ではなく月齢で変わるからこそ、いろいろな姿の月を眺めては心を動かされるのです。はかないものをいとうしむ心は、自然や物事に、はかない自分自身の心を移しとらえる無常観によるものです。それに共感しつつ、その一瞬の美しさの力を感じることによって、自然との一体感を見いだしているのです。

 日本人にとってかけがえのない美の世界があります。そしてそこに根ざしているもの「和」の原点といえるもの、私たちが世界に誇れるもの、それが「大和ごころ」です。
(参考書類:加藤ゑみ子・著「和のルール」より)

text by ニトベ・コンドウ(Bass from Mountain Mocha Kilimanjaro)

クルックリン

2006年04月12日 更新

よく好きな映画は?などと聞かれると、僕は映画の題名ではなく、映画監督の名前を出してしまう。特に映画に詳しいわけでもないのだが、監督で映画を見ることが多い。好きな監督の多くは、脚本、制作、監督まで手掛けていることが多く、おまけに、本人が出演してしまうこともよくある。たいがいは、脇役なのだが、印象に残ってしまう脇役であったりする。そんなやりたがり、出たがりな好きな監督の1人にSpike Lee(スパイク・リー)という監督がいる。

 スパイク・リーは、ニューヨーク大映画学科の卒業制作に作った「ジョーズ・バーバーショップ」でロカルノ映画祭など各賞を受賞し、一躍名を広めた。そしてそのおかげで制作費を集めることに成功し、1986年、デビュー作となる「シーズ・ガッタ・ハヴ・イット」を制作した。

 その「シーズ・ガッタ・ハヴ・イット」が高い評価を受け、89年2作目の「スクール・デイズ」で、早くもハリウッド・デビューとなった。そして、3作目「ドゥー・ザ・ライト・シング」が大ヒット。

 スパイクリ-作品は、70年代初頭にヒットしたブラック・ムービーを彷佛とさせ、ブラック・ムービーが再注目されるきっかけとなった黒人映画監督の一人である。特徴として彼の作品には「ドゥー・ザ・ライト・シング」、「ジャングル・フィーバー」、「マルコムX」、「ゲット・オン・ザ・バス」など、人種差別やドラッグ問題など黒人社会が抱える問題をテーマとしたものが多いのだが、そんな中に異色作品として「クルックリン」がある。

 「クルックリン」は、70’sソウル・ミュージックをバックに、主人公の黒人少女の視点で、60年代末のニューヨーク州ブルックリンの生活を描いた映画なのであるが、特に、彼の他の映画で見られる社会的なメッセージはなく、その当時のブルックリンにあった子供のころの遊びなどの70’sのカルチャーをその時代の音楽と共に感じることができるのである。この時代の音楽は、時代との関わりも強く、お手軽に感じることのできる映画である。僕は、はじめてこの映画を見たときになぜだかテンションが上がった。きっと何も考えずにフラットな状態で見て楽しむことができるからであろうと思う。淡々としたストーリーが展開する中に人気番組「パートリッジ・ファミリー」や「ソウル・トレイン」に、バスケのニューヨーク・ニックス優勝などその時代を感じとれるものが盛り込まれている。また、シンナーを吸ってるラリったジャンキーや万引きなどそんなシーンもコミカルに描かれて、深く考えずに見て楽しむことができる。

 ただ、その一方でこの映画のみならず、彼の作品は、一部の黒人に黒人社会問題を題材の映画でさえもリアルでないと批判されたりもする。たしかにこの映画でもこの時代の音楽に深い関わりを持つ公民権運動やベトナム戦争については、あまり触れられてない。若干、あったりもするのだが特に気に留めるほどのシーンではない。

 よく比較されてしまうのが、「ボーイズン・ザ・フッド」のジョン・シングルトン監督であろう。この映画は、90年代のゲットーの地元の悪ガキやゲットーから這い上がろうとする優等生とのコミュニティーにギャングの抗争が絡んだりとゲットーの日常をリアルに描いたブラック・カルチャー・ムービーである。ちょうど同じ時期に注目された黒人監督だから比較されることも多いのだろうが、たしかに彼は、ゲットー出身で自己体験を元にして作られていることもあり、リアルはリアルである。ぼくは、「ボーイズン・ザ・フッド」も好きであるが、スパイク・リーと比較するのは、違うのではないかと思う。

 スパイク・リーはエンターテイメント性が強いのだ。そこが黒人のみならず、白人から多くの大衆にうけたのだろう。たしかに中流階級出身のニューヨーク大学まで出ているスパイク・リーは、ジョン・シングルトンと違いリアルさに欠けるかもしれないが、特にこの映画は、エンターテイメント性が強く、お手軽に楽しむことができるのだ。ただ、脚本は、彼と弟と妹によるもので、父親がミュージシャンに、母親が教師など実際の彼自身の思い出がもととなっていて、綺麗な部分だけを貼り合わせた印象もあるが、彼にとってはリアルであるのだろう。また、これが、「マルコムX」の次の作品なのだから、それは酷評されるのも無理はないが。

 この作品に最後の最後に見逃せない面白いシーンがある。70’sカルチャーとその当時の90’sカルチャーが絶妙にミックスされた彼のエンターテイナー性が存分に発揮されているシーンである。

 ラストのエンド・ロール近くで、当時の人気番組「ソウル・トレイン」が流れ、みんながファンキーなソウル・ミュージックに合わせて踊るシーンにフッとバック・ミュージックがCrooklyn Dodgersの”Crooklyn”へと変わるのだが、これは人気絶頂のA Tribe Called Questをプロデュースに、MCにSpecial ED、BuckshotにMaster Aceを迎え夢の共演とも言われたこのサントラ唯一のヒップ・ホップ・チューンである。70’sのダンスに90’sのミュージックがリズムから映像までもが違和感なく流れているのだ。これが実に絶妙なのである。

 心染み渡るというほどでも、深く考えさせられるという映画ではないが、とにかくブラック・カルチャーと音楽が楽しめる娯楽映画であると思う。ちなみに当時、この映画を見て、ベタな選曲にもかかわらず、2枚組にも及ぶサントラを買ってしまった。映画のままにテンションが上がるから、今でも旅行の車の中によく持っていくアイテムである。

 ぜひ、「クルックリン」に興味を持った方、特に期待をせずに、フラットな状態で見てください。見た後にきっとテンションが上がるでしょう。

text by 四丁目
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